中国北宋(960-1127年)の都・開封の都城内外のにぎわい栄えた様子を描いた画巻「清明上河図」は、世界でも屈指の幻の名画として知られている。また、作者である張択端(ちょうたくたん)が、北宋の宮廷画家であったということ以外、詳しいことがほとんど分かっていない画家であるなど、謎の多いミステリアスな作品でもある。北京晨報が報じた。
「清明上河図」をめぐっては、南宋(1127-79年)初期に開封の繁栄を回想して描いたとする説もある。また、清(1644-1912年)の時代に、「清明上河図」の模写が産業化し、北京ではオーダーメードしてくれる画室が数多く出現、比較的安価で取引された。そのほか、どの時代にも、「清明上河図」と名を打った類作が次々に出現し、同画巻の真相が一層混乱してしまった。
今年、日本のジャーナリスト・野嶋剛氏の著書「謎の名画・清明上河図──北京故宮の至宝、その真実」の中国語版が出版される。同書は「清明上河図」の鑑賞の方法から、中国屈指の名画の裏にある波乱に満ちたストーリーまで、わかりやすくまとめており、価値のある作品となっている。また、同画巻を通して、中日文化の異同を浮き彫りにしており、興味深く、味わい深い一品でもある。
同作品について、著名な中国の学者・李長声氏に聞いた。
「清明上河図」の背後にある都市伝説
私は20年前に日本に来てから、野嶋氏の著作を2冊読んだことがある。私が「清明上河図」を見たのは全て日本で、うち京都府立陶板名画の庭には、原寸を縦横2倍に拡大した、陶板画の「清明上河図」が展示されている。
私は美術の専門家ではなく、「清明上河図」に関する知識は全て野嶋氏の著作から得たもの。同書は、知識を増やすことができるだけなく、おもしろく読むことができ、本当に読む価値がある。ジャーナリストの野嶋氏は資料を収集したり、整理したりする面で長けているだけでなく、作家でもあり、中国の文化にも精通しているため、私は特異な作品に仕上がっていると思う。都市伝説を背景に、文化や政治などにも触れており、とてもおもしろい。
宋の時代も中日交流が頻繁
中日の文化交流と言うと、多くの人が、唐(618-907年)の時代、特に日本が遣唐使を派遣したことを連想するだろう。日本の当時の朝廷は、中国の文化や制度を取り入れるために遣唐使を派遣していたが、907年に唐が滅亡したことや遣唐使の多くが海上で遭難を経験したこと、遣唐使を派遣するために国庫が空になったことなどが重なり、廃止された。
唐末期から宋の初期にかけて、中国の商業は非常に発達しており、海上における往来のために政府の財力を頼る必要はなかったため、民間の交流が始まっていた。宋の文化は、僧侶や商人によって、日本の寺や民間に直接伝えられた。これが唐の時代と大きく異なる点だ。
宋の時代に描かれた「清明上河図」の中に、「新酒」という文字がある。これは「春に醸造した酒」という意味で、「酒熟」は秋を意味する。今でも、日本では春の初めに酒造りを始め、酒造り場の門には、スギの葉を集めてボール状にした「杉玉」が軒先に吊される。吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて色が変わり、夏の終わりから秋の初めに枯れて茶色がかってくると新酒が出来たことを知らせる。
「清明上河図」を通して、中国文化の日本に対する影響を探すのもおもしろいと思う。