ある時期より、西側諸国では「ナショナリズム」という言葉で中国を語ることが多いが、なぜこのように言うのか理解に苦しむ。中国にも西側をまねてこうした言い方をする人が少数ながらおり、問題をさらにわかりにくくさせている。(環球時報社説)
ナショナリズムは政治用語だ。政治用語の多くは意味が歴史の中で変化を続け、国や力が違えば、同じ言葉でも同じように使用するとは限らない。全体としていえることは、世界を見渡してもナショナリズムという現代の概念は相当曖昧なものであり、愛国主義との境界がはっきりしないが、愛国主義は通常はプラスの言葉、ナショナリズムは通常はマイナスの言葉とされるということだ。
ナショナリズムという概念には歴史的過程と関わりがある学術的な解釈がある。だが現在の中国や海外の討論の場で使用される場合は、正常な愛国主義を超えてしまった感情で、愛国主義よりも激しく、攻撃的なものとされることが多い。この言葉の内容の明確さは、マイナスの意味合いほど突出したものではない。実際、世界や地域と競争する社会に積極的に参与する場合は、多かれ少なかれナショナリズム的な気分になるものであり、またこうした気分をもつ人たちもいる。中国は自国にはナショナリズムはまったくないと言うことはできない。問題は中国がナショナリズムだといってしょっちゅう批判する国で、ナショナリズムから完全に自由な国があるだろうかということだ。
西側世論でナショナリズムを語る時は中国を指していることが多い。西側の一部の人々は、ナショナリズムというのは中国のイデオロギーの中で共産主義よりも実質的な中味をともなった概念であるとの見方を示し、彼らがナショナリズムを語る時にはナショナリズムの意味を再生し、ほとんど形容詞のように使用して中国と関連づけている。こうして、中国はナショナリズムの汚名を背負わなくてはならなくなった。中国がどのような動きをしても、常にナショナリズムのレッテルが貼られる。
是非を考えれば、はっきりする。中国と周辺国との交流の多さを他国と比較すると、特に領土問題を抱えた国々と比較すると、誰のナショナリズムが最も強烈なのかが見えてくる。
日本の政府高官と議員が靖国神社を恒常的に参拝し、激しい感情や対抗の姿勢を示すことにより、日本の高官達は中国社会の言論を刺激し、これらの言動はたびたび中日の衝突の導火線となってきた。このような中国でほとんど見られない動きはナショナリズムといえないのだろうか。