2015年6月3日  
 

中日対訳健康知恵袋 企画集 北京のお気に入り

Apple新浪騰訊人民LINE微信RSS
人民網日本語版>>中日フォーカス

日本に帰化した中国人ソフトボール選手、日本代表監督に再任 (2)

人民網日本語版 2015年02月27日08:15

1980年になると、任氏はナショナルユースチームとしてカナダへ行き、U17の世界選手権を戦った。成績を上げるため、中国ナショナルユースチームはまず日本と米国で強化訓練を行った。当時、任氏のソフトボールの先輩が、任氏に中国茶が入った2つの缶を宇津木妙子氏に渡すように頼んだ。これをきっかけに、任氏と宇津木氏は友人になった。そして、2人の友情は国境や年齢を超えるものとなった。日本の強化訓練の期間、宇津木妙子氏は手とり足とり任氏を指導した。その結果、カナダの世界選手権で戦った任氏は打率王と本塁打王の二冠に輝いた。その後、任氏は独学で日本語を学び、手紙や電話などを通じて、宇津木妙子氏にソフトボールのテクニックを教わった。

宇津木麗華氏(左) 宇津木妙子氏(右)

■25歳の時、日本高崎女子ソフトボール部に向かう

中国ナショナルチームに所属している間、キャプテンを務めていた任氏は絶対的な主力メンバーだった。1986年の世界大会では、本塁打王と打撃王の2冠を達成した。試合後、カナダやオーストラリアなどのソフトボールチームから移籍しないかと誘われた。任氏は、当時の中国ナショナルチームの監督だった李敏寛氏にどうするべきかアドバイスを仰いだ。李氏は、「中国ソフトボール協会はおそらく同意しないだろう」と語った。

1987年、愛知県で開催されたアジア選手権では、任氏は試合前にくるぶしを捻挫してしまった。宇津木妙子氏は毎試合前に、中国ナショナルチームの宿泊先を訪れ、テーピングと包帯で任氏の足を固定した。そして、女子ソフトボール中国代表は、アジア大会で優勝に輝いた。試合後、宇津木妙子氏は、日本の日立高崎女子ソフトボール部に任氏を誘った。李監督は何度も考慮した結果、ついに任氏の要求を認めた。

中国ナショナルチームの許可は得たものの、任氏の父親は娘の決断に強く反対した。抗日戦争に参加したことがある父親の任位凱氏は、一番下の娘が日本でソフトボールをしたいと言ったとき、「なぜ日本に行かなければならないのか?」と聞いた。家族の猛烈な反対にもかかわらず、任氏は1988年に引退の手続きを行い、中国女子ソフトボール選手の中で、海外でプレイする初めての選手となった。日立高崎女子ソフトボール部では、任氏は絶対的な主力メンバーだった。後に、任氏は同クラブで監督を務め、率いるチームは日本リーグ・全日本総合・国体の3冠を達成した。


【1】【2】【3】【4】

関連記事

コメント

最新コメント