日本に行った後も、任氏は祖国に呼ばれ、中国代表として試合に参加していた。これまで、国籍を変えることなど考えたことはなかった。しかし、宇津木妙子の母親が任氏に自分の戸籍に入って、宇津木妙子氏の妹になるように勧めた。日本の法律では、任氏が宇津木氏の戸籍に入るという件は、宇津木妙子氏のすべての兄弟姉妹からの同意が必要となる。これが意味するところは、宇津木家の財産の一部が任氏に与えられるということだ。この件は、任氏にとって受け入れがたいことだった。「私は、お金はいらない。他人のものは欲しくない」。
1995年、日本女子ソフトボール代表監督を務めていた宇津木妙子氏は、任氏に日本代表としてアトランタ五輪に出ることを希望した。恩人である宇津木妙子氏の要求に応え、任氏は日本国籍を取得することを決意した。日本ソフトボール協会の協力の下、任氏は日本国籍を取得する手続きを無事終えた。
宇津木妙子への感謝の気持ちを示すため、任氏は宇津木氏と同じ姓にして、中国名にあった「麗」と祖国の「華」を日本名に入れた。