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個展にて ■デザイナーから留学生に
日本留学を決意された理由は?いつ日本留学されたのですか?
訪日前、私は中国雑伎団でファッションデザインの仕事をしており、全国、北京のファッションコンテストで多数受賞しました。当時はファッションデザインでさらに飛躍し、世界的に視野を広げることを夢見ていました。その頃ちょうど、友人に訪日を勧められました。それで慌ただしく3カ月日本語を学んだ後、日本へ留学しました。
1992年年初から1995年年末まで、宮城県仙台市に留学しました。改革開放の流れのなか、当時の中国の若者は出国し、外国の先進的な科学知識・文化を学びたいと渇望していました。あの頃の日本は世界の経済大国で、また祖国にもっとも近く、中国と同じアジア文化の国であり、当時は多くの留学生が日本を選択していました。
■日本語ゼロからの出発、「筆談」で交流
当時の中国社会はどのようでしたか?当時の中日交流はどのような状況でしたか?
当時、中国の経済全体が未発達で、生活水準・給与はとても低かった。留学手続き費用、初年度学費はいずれも、日本側の保証人様に立て替えていただいたのを今でも覚えています。1年後にやっとすべてお返ししました。当時の中国人留学生は、高度に発達した高収入、高消費の国に留学することは、重い経済的プレッシャーと負担を背負い、この危機感のなかで懸命に学び、懸命にアルバイトし、懸命にお金を稼いでいました。
あの頃は、非常に多くの両国人士はみんな、中日友好推進のために積極的な努力をされていました。私の日本側保証人様もそのお一人でした。パンダ協会の会員をされていたことを忘れません。日本で書店を数十年営んでいらっしゃいました。優しく、喜んで人を助ける熱心な高齢のご夫婦でした。訪日前のわずか3カ月間、余った時間に日本語を勉強しました。初めて日本に着いたとき、日本人の方々と言葉がまったく通じなかった。でも漢字が中国人留学生にとって役に立ちました。新聞、街中、公共の場には至る所に漢字が見受けられます。最初にご夫婦宅にホームステイした頃は、いつも「筆談」で交流していました。
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