2014年1月29日  
 

中国の夢健康知恵袋 企画集 日本からニイハオ!

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中国製漢方食品を広める女性実業家の李宝珠さん

 2014年01月29日08:28
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株式会社信宜の李宝珠社長

 現代のライフスタイルの急速な変化にともない、これまで日本であまり人気のなかった漢方薬が、このところ再び重視されるようになっている。こうした背景の下で次のような人々が登場してきた。時代とともに前進し、広大で奥深い中国医学に改良を加え、日本に伝えようとする人々だ。人民網日本語版のインタビュー企画「日本からニイハオ!」でインタビューに応じてくれた株式会社信宜の李宝珠社長は、まさしく日本で現代の中国医学を伝える先駆者で、遠隔地の農村の「裸足の医者」から、中国と日本に工場と研究開発センターを擁する企業家になった人物だ。李社長の創業の道のりはどのようなものだっただろうか。

 ▽人生の理想は「裸足の医者」から海外で中国医学を伝えるようになること

 李社長は子どもの頃、他の子どもと同じく、映画で農村医療に従事する裸足の医者を見て尊敬の気持ちを抱き、いつか自分もそうなるのだと夢に描いていた。そこで中学校に入ると、病院に日参して医学の基礎知識を勉強した。

 高校を卒業すると、青年知識人として四川省邛崃県に下放され、人口4千人ほどの村で裸足の医者を4年間務めた。当時、青春のまっただ中にあった年若い李さんは、事業を興すことを夢見て、日々の農作業と高齢者のケアが終わると、夜は懸命に勉強した。高齢者は西洋医学よりも中国医学を抵抗なく受け入れるため、当時の李さんはさまざまな中国医学の知識を身につけることになった。

 文化大革命が終わると、李さんは天津市の南開大学に入学し、卒業後は大学にとどまって教壇に立った。その後、日本に留学し、改革開放後の出国ラッシュの中の一員になった。中国と日本の大学の経済学修士と歴史学修士の学位をもつ李さんは、自分のことを「学問をする器ではない」と言い、専門とは関係のない仕事をしていると笑う。実際、医者として人に向き合い病気を治すという夢を忘れたことは一時もなかったという。

 李さんは日本滞在中、日本人が中国医学文化を含む中国文化を非常に尊敬していると感じた。だが日本人は中国医学や漢方薬に関する知識が極めて乏しく、病気になって初めて病院に行き、自分で自分の体を調節することを知らないとも思った。李さんは当時、自分の知っている中国医学の知識に基づいて、周りにいる日本人に薬膳のちょっとした知識をよく教えていた。教わった日本人からは驚きと賛嘆の声が上がったという。李さんはたくさんの人から、もっている知識を利用してより多くの人を助けるよう薦められた。これはまさしく李さんが考えていたことでもあった。

 起業という構想を抱くようになった李さんにとって、技術市場を知り尽くした自身の父親が最も力強い支援者だった。当時の中国は外国から一連の廃棄された工業製品や中古の工業製品を輸入していた。父親は李さんに、「このような海外のがらくたで中国人から金を稼いではいけない。自分の力で外国に足場を見つけ、外国人から金を稼ぐべきだ」と話した。父の教えを胸に、李さんは中国医学や漢方薬を海外で広めようという信念をますます堅いものにした。
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