2014年4月8日  
 

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電通PRの代表・鄭燕さんにインタビュー「中日間コミュニケーションの強化が必要」(2)

 2014年04月02日17:50
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花見

 ■留学を果たし勉強とアルバイトを両立

 記者:日本に留学したのはいつですか?どのように勉強とアルバイトを両立しましたか?

 鄭さん:94年に日本に行って、「国際学友会」という日本語学校に入学しました。その学校は日本の文部省指定の日本語学校で、奨学金制度もあったほか、優秀な教師が揃っていました。そこで1年勉強しました。勉強の内容は多岐にわたり、歴史や数学、英語などの基礎科目も含まれていました。その1年は、一番一生懸命勉強した1年でした。それも、授業の余暇には、通訳や日本人に中国語を教えるアルバイトをしながらでした。收入はある程度ありました。しょっちゅう夜に帰宅し、少し寝てから、また起きて数時間勉強していました。夜中の寝静まった時間にする勉強は効率的でした。おかげで奨学金も2度もらいました。95年に、早稲田大学と一橋大学の受験に合格しました。早稲田の合格通知を先にもらって、入学金を払ってから、一橋大学の合格通知を受け取りました。一橋大学は国立で、学費が安いうえに、奨学金ももらえるため、同大学の商学部に進むことにしました。

 ■日米の企業文化の違いを体験

 記者:日本で米国企業に就職されましたが、会社文化などにすぐ慣れましたか?

 鄭さん:大学卒業後、アクセンチュア(日本)に入社しました。入社後、まず3カ月間の研修があり、研修でまず学んだのはタイムマネジメント、プログラミングそしてチームワークなど。資料は全て英語で、毎日英語ステータスレポートも書かなければなりませんでした。残業が多く、ストレスも大きかったです。その後、何度か米国に行って全世界から集まる同僚といっしょに研修を受けたことがあって、仕事するときは効率よく仕事をし、遊ぶときはとことん遊ぶ米国コンサルスタイルを学びました。業務プロセスのガイドラインがあり、プロジェクトで遭遇する全ての問題を想定し、どのように対処するかが詳しく書かれていました。アクセンチュアで4年働いた間に、10のプロジェクトに参加し、各プロジェクトが始まる前に面接があり、終了後には評価が下されました。もし3回連続で最低評価の人は退職勧告されます。“UP or OUT”と主張し、毎年、従業員25%の首が切られ、カウンセリングアウトと呼ばれていました。当時は本当に忙しい生活で、時には前日夜会議終わって翌日朝8時に提案したり、一晩で業務に関係する書籍1冊を読み通すよう指示されたりしていました。2年目に、ある財務システムプロジェクトでに部下が7人の日本人男性部下を率いるプロジェクトリーダーを務めました。私より十数年年長の男性部下が二人から私に対する不満も大きかったようで、それまで以上に一生懸命仕事に打ち込みました。仕事が遅い人がいて、その人の仕事を終わらせるために、何度も一緒に残業しました。そのプロジェクトが終了し、上司にその時の事を伝えると、「タイムマネジメントができないあなたが悪い」と厳しく叱責されました。なぜなら、クライアントは、支払う人件費を時給で計算することになっていたからです。余計に時間かかって請求できない分会社が損失をこうむることになるその従業員には、早めに見切りをつければならなかったとのことでした。中国で、部下が仕事を終わらせることができるよう、責任者が一緒に残業していたら称賛されますが、アクセンチュアでは「管理者としてのミス」と見なされ叱責されるということにとても驚きました。これが、米国と中国の仕事における理念の違いと感じました。プロジェクト管理、ロジックシンキング、効果かつ効率を追求ワークスタイルが叩き込まれました。

 記者:米国系企業から日本の会社に転職し、不慣れな部分はありませんでしたか?

 鄭さん:アクセンチュアで、難易度の高いプロジェクト管理を何度も経験していたので、日本の会社に移ってからは「楽だ」と感じました。03年、アクセンチュアを辞め、電通に就職しました。日本の会社に入社し、うれしかったのは自分のオフィスデスクができたことです。アクセンチュアでは、自分専用のオフィスデスクがありませんでした。電通で、私は、営業兼戦略プランナーとして、あるクライアントのグローバルブランドを担当しました。不慣れに感じたのは、それまでは何をするにも計画的だったのに対し、日本の会社では上下関係が明確だけど社員の権力や責任が明確でなかった点で、企業管理の仕方が全く違うと思いました。アクセンチュアでは、論理的であること求められ、全ての業務にガイドラインがあったけど、電通にはありませんでした。クリエーティブや色んな人と接しているにつれ、広告はすごく面白いと感じました。元々左脳型人間の私が右脳的な発想も併用し、感性的なもので人に訴えかけることを追及するようになり、日本企業企業文化や経営スタイルを学んできました。

 11年6月、電通のPR代表として、北京に赴任し、電通藍標の副総経理になりました。北京に戻ったばかりの時、最初に感じたのは、母国について実は知らないことが多すぎて環境の大きな違い変化を感じました。03年電通に入社して以降、中国を主とする海外市場業務に携わり、出張にもよく来てました。しかし、いざ長期間戻ることになると食住医療環境や微博(ウェイボー)、などの新メディア動向など、不慣れなことがたくさんありました。新メディアを学び人脈を築くため、微博をはじめある草の根専門家といっしょに週末メディアサロンを立ち上げ、業務を展開しているうちに、新しい環境にも少しずつ慣れ、仕事を軌道に乗せることができました。
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