もし、民族主義が、単に自分の国と民族に対する愛の表現するものというなら、何も避難するところはない。このような民族主義は、実際には愛国主義と同じだ。しかし、もし、民族主義が極端に走り、自分の民族に対する愛という感情を別の民族は憎むという感情へと変化させるのであれば、「極端な民族主義」へと変貌してしまう。現在の世界において、民族主義が極端な民族主義へと変化するケースが頻発しているため、主流の政治用語において、「民族主義」は悪い意味合いで用いられることが多い。小説家のリチャード・アードスは著書の中で、「愛国主義は一種のポジティブな責任感。一方、民族主義は自分の積み上げた糞のために泣き叫ぶ浅はかなニワトリのようなもの」と指摘。また、フランス第五共和政初代大統領・シャルル・ド・ゴール氏もかつて「愛国主義とは、祖国を愛することである。一方、民族主義とは、その他を嫌悪することである」と語った。さらに科学者のアルベルト・アインシュタイン氏も「ナショナリズム(民族主義)は子供の病気だ。人類にとってのハシカのようなものだ」と述べた。
民族主義という仮面をかぶったポピュリズムは、「民族を守る」や「国家の利益」とう看板を掲げているため、庶民の賛同を得やすい。そして、それに反対を唱える人も、「売国者」とのレッテルを貼られることを恐れ、「沈黙」という立場を取ってしまう。政府もこのような非理性的な行為を管理・抑制する際、慎重であるべきで、なにも行動を起こすことができないこともある。
ポピュリズムは現在、中国における「害」の一つで、拡大の気配を見せているため、矯正が必至となっている。レーニンが当時、ナロードニキを批判したように、中国の思想・理論界はポピュリズムに対する批判の勢いを強め、中国においてその恥ずべき顔立ちをさらすべきだ。政府もポピュリズムの非理性的な行為に対しては、法律や行政紀律に基づいて、厳しい処罰を下す。また、ポピュリズム的世論や行為に左右されることがないよう、警戒感を保たなければならない。最も重要なのは、民生や民権の問題を解決し、ポピュリズムの繁栄や蔓延を許さない社会的土壌を固めることだ。(編集KN)
「人民網日本語版」2012年12月6日
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