■文化庁の研修制度で監督として初めて中国の地を選ぶ
奥原監督は2008年9月に文化庁新進芸術家海外研究員として北京に赴いた。この研修制度で中国の地を選んだ監督は奥原監督が初めてだという。これまで、香港や台湾などを訪れたことはあったものの、中国の大陸部に足を踏み入れたことは1度もなかった。中国の印象や知識は、早くは陳凱歌(チェン・カイコー)監督、張芸謀(チャン・イーモウ)監督といった第5世代監督らの作品や、最近では賈樟柯(ジャ・ジャンクー)などのインディペンデント系映画を通して仕入れてきた。しかし、これらの映画の舞台は地方であり、北京はまったくの未知の世界だった。
なぜ、ニューヨークやパリといった伝統的な映画の地ではなく、中国を選んだのか?これについて奥原監督は、「当初の目的は、研修制度を通して、海外で映画を1本撮ることだった。ニューヨークやパリという選択肢もあったが、どんなに想像力をはたらかせても、そのような土地で自分が映画を撮る姿が浮かばなかった。自分自身と関係性が見出せない土地で映画を撮っても面白いものになるはずはない。中国なら、自分自身に接点がなくても、国と国との間に個人の人生体験を遥かに超えた日中間の往来がベースとしてすでに存在している。必ず何か撮るべきものが見つかると思った」と語っている。
■13億人という数が持つスケールの大きさにひかれた
映画を撮るという明確な目的意識を持って北京に訪れた奥原監督だったが、当初はまったく語学もできず、映画のことを考える余裕はまるでなかったという。そんな中、最初に興味を持ったのは中国人の若者たちだった。北京電影学院の学生たちと交流をするうちに、今の東京の若者たちとあまり変わらない若者像、つまり差異ではなく、共通点に深い印象を受けた。「特に女の子たちと交流すると、みんな自信がなく、将来のことをすごく不安に感じていた。ナイーブで傷つきやすく抑圧されてるようだった」と奥原監督。そこで、急激に変化する社会状況と中国古来の伝統的な価値観との狭間で喘ぐ20代前半の女子学生たち4人を主人公にした群像劇の脚本を書いた。