日本サッカーのサポーターのこういった品位にも、同様に文化的記号が現れている。ルース・ベネディクトの「菊と刀」では、日本文化は西欧的な「罪の文化」とは対照的に「恥の文化」であると定義している。簡単に言うと、西欧の人々は主に絶対的な道徳観を持ち、内面的な罪の自覚に基づいて行動を律している。それは、カントの次の言葉にも見て取れる。「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」。一方の日本人は他人の目線を自分たちの行動の規範とする。ルース・ベネディクトの論説によると、「恥を感じることは日本人の生活において非常に重要であり、いずれの日本人も社会が自分の行動に対する評価に対して非常に注意を払う」という。
このため、「人に迷惑をかけてはならない」というのが日本人の基本的な行動基準となる。球場に残されたゴミを拾うという行動もまた他の人に迷惑をかけてはならないということから来ている。しかし、日本にはこれに反する、「旅の恥はかき捨て」ということわざもある。この意味は、知らない人の場所ではこの規則を守る必要性はないということだ。これもまた、日本人のスキャンダルのほとんどが家の外で起こっていることと関係があると説明できるだろう。
残念なのは、日本代表チームがブラジルで示した日本文化の象徴である「深く恥じ入ること」や「恥の意識」が、日本が過去に犯した侵略の歴史を深く認識したり、誠実な謝罪をするという面で示されないことだ。このような日本人の「選択性」について、考えさせられる。(編集MZ)
「人民網日本語版」2014年7月1日