たとえ「三年困難時期」(1959~1961年。大躍進政策などで起こった全国的食料不足と飢饉の時期)で、管理所職員が瓜や野菜のみの粗末な食事をしていた時でも、戦犯の食事の質は変わらなかった。病気になった者には速やかに治療を施し、歯の悪い者には義歯を与え、近視や老眼の者には視力を測定し、メガネを与えた。武部六蔵は脳卒中で4年間寝たきりになったが、医療スタッフの手厚い看護の下、床ずれ一つできなかった。
60年余りが経ち、92歳となった須子達也は撫順戦犯管理所での日々を思い出すと、はらはらと涙が流れるのをこらえきれない。「日本は中国と戦争してはいけない。隣国として助け合うべきだ」。
1956年、裁判開始前に中国政府は日本人戦犯に中国各地を見学させた。彼らは新中国に起きた多大な変化を目にしただけでなく、かつて日本軍が中国民衆を虐殺し、様々な惨事を引き起こした場所で生存者による糾弾の声も聞いた。戦犯らは思想と魂を大きく揺さぶられ、次々にその場でひざまずき、罪を懺悔した。
1956年6~7月、瀋陽特別軍事法廷は鈴木啓久ら日本人戦犯36人の公開裁判を行った。裁判を受けた戦犯のうち罪を否認したり赦免を求める者は誰一人いなかった。それどころか、多くの戦犯が自らを厳重に処罰するよう求めた。
偽満州国総務庁次長だった古海忠之は法廷で「私は中国で人類が許すことのできない途方もない大罪を犯した。私を極刑に処すよう中国人民に求め、これをもって後の代の日本人への教育としたい」と述べた。
かつて率先して「抗議書」作成に参加した島村三郎は法廷で長い間ひざまずき、自らを極刑に処すよう求めた。
裁判の結果、起訴された日本人戦犯には最長で20年、最短で8年の刑が言い渡された。それ以外の多くの中・下級日本人戦犯に対しては、主な罪を取り調べ、明らかにしたうえで、起訴を免除し、釈放し、帰国させた。
これら日本人戦犯は帰国後「中国帰還者連絡会」を結成し、日本各地に支部を設立した。彼らは「平和と日中友好に貢献する」を趣旨に、侵略戦争に反対し、中日友好を推進してきた。このうち『三光』『私たちは中国でなにをしたか』などの書籍刊行は中国侵略の犯罪行為を暴き出して、日本の民衆に大きな衝撃を与えた。
この改造の奇跡の体験者と目撃者のほとんどはすでに他界した。だが戦争犯罪者の魂を改造するために新中国が払った努力と成果は、歴史の記録に光り輝き、人類の歴史において厳かかつ暖かい記憶となるだろう。
まさに日本人戦犯・稲葉績が言ったように「戦犯を改造して罪を認めさせ、人類により良く貢献させることには計り知れない意義がある。撫順の戦犯改造は偉大な取り組みだったのである」。(編集NA)
「人民網日本語版」2014年9月1日