許氏は「若いころ、何人かの良師に出会った。彼らの教えは一生忘れない」と語る。
1人目は南京図書館の司書として働いていた竺陔南氏。日本留学経験を持つ竺氏は、許氏の体から漂うガソリンの匂いを嫌がることなく、彼に「正規の日本語教育を受けるべき」と薦めた。当時、雑誌「訳林」の日本語編集者だった息子の竺祖慈氏を日本語教師として許氏に紹介したのも竺氏だった。
2人目は竺祖慈氏が許氏に紹介した日本語教師の胡毓文氏。「胡氏は手術後で、病床にいながら、震える手で私の訳文を直してくださった。当時の原稿は今も大切に保管している」。
3人目は南京大学の教師・呉之桐氏。許氏は当時、1カ月分の賃金をはたいて南京大学の聴講生証を取得した。他の生徒よりもずいぶん年上で、作業服を着ていたため、許氏はいつも教室の後ろのほうに隠れるようにして授業を聞いていた。「呉先生は私の宿題をとても真剣に直してくれた。授業に来た人は皆同じ学生として分け隔てなく接してくれた」。
長年の努力が実を結び、許氏の日本語の実力も相当なものになった。胡氏が持ってきた院生用の問題を解いてみたところ、平均点が85点以上と、大学院でも十分通用する学力がついていたが、残念なことに学部生の学歴さえ持っていなかった。ある晩、許氏が新聞を読んでいると、武漢大学の編入生募集公告が目に入った。翌日、許氏が新聞を胡氏に見せると胡氏も「是非行くべきだ」と背中を押してくれた。許氏は夜を徹して武漢に向かい、最優秀の成績で大学3年生に編入した。
1990年、許氏は中国社会科学院外文所に入所し、有名な翻訳家である葉渭渠氏と唐月梅氏について翻訳と研究を行った。その後、2002年に外文所東方文学研究室に異動、2007年には第4回魯迅文学賞優秀文学翻訳賞を取得した。