南京大虐殺が起こった頃、津田氏はまだ小学2年生だったが、南京陥落を祝した提灯行列に参加したことを今でも覚えていると語っている。津田氏は、文章の中で、「両親は学校の教師だった。家でも戦況のことが話題になっていたのを今でも覚えている。子供の私は、友人たちと『わが手に握りし 賊を征伐するがため 尺余の銃(つつ)は武器ならず寸余の剣(つるぎ)何かせん』という歌を一緒にうたっていたが、歌詞の意味や軍歌であることは知らなかった。ただ軍人の様子を習って、毎日を過ごしていた。12月になると、『南京政略』の期待が日本の大衆の間で高まっていった。メディアも積極的にこの時局に迎合し、戦争をけしかける大合唱に参加していた」と記憶を綴(つづ)っている。「これと同時に、南京では、日本の兵隊が狂ったように大虐殺を行った。日本の兵隊は中国人の老若男女の血と涙を流すことで、別の形での祝典を行った。幼児体験が痛切な自覚に変わったのは、非常に後になってからで、すでに80年代初頭になっていた」と津田氏は自分の恥を包み隠さず書いている。
1995年、津田氏は66歳の時に、日本人の戦争責任を深く反省した後の自分なりの答えを出した。
著書「南京大虐殺と日本人の精神構造」の中で、津田氏は、「私の問題意識の答えは、戦場での『異常心理』や戦死した戦友のための報復とかだけでは説明しきれないものがあるように思われた。そこに私は、「日本人大衆の精神構造」の特殊性をみるのである」と書いている。
津田氏は単純な自己批判だけでは満足しなかった。また、一般的な枠組みでの歴史の分析にも満足しなかった。日本の大衆の「精神構造」から人間の残虐行為の根源を探ることから始めた。日本人が反省の意識をあまり持たないことに対して、津田氏は、文章の中で、「恐れずに日本人の精神世界を解体する」として、「大衆の目論見や虚無主義(ニヒリズム)」「大衆の虚無主義と知識人の虚無主義」「大衆の利己主義」「中国の思想の蔑視」を批判した。津田氏は、「これはまさに、日本が第2次世界大戦後、侵略戦争に対して国民的な償いをしなかったことから生じている」という考え方を示した。「戦後の今日にいたるまで、戦争の無実を主張するためのさまざまな奇怪な論が展開され、それによってこういった言論がまかり通っている」。