出土した文化財
馮孝約は出世が約束されていたはずだが、なぜ光州司戸に落とされたのだろうか?田研究員は、「馮孝約の位が落とされたのは、おそらく皇太子・李承乾が貞観17年(西暦643年)に計画した政変と関連している。歴史書によると、唐太宗の時代、皇太子の位を巡り激しい争いが繰り広げられた。馮孝約が仕える李承乾は唐太宗の長男で、8歳の時に皇太子に立てられた。その後、唐太宗の四男の李泰があらゆることについて、父の若かりし頃の手法をまね、父に取り入り気に入られた。李承乾は皇太子の位を維持できないと焦り、貞観17年に謀反を企てた。事の次第が明らかになると、庶人に落とされ黔州に流された」と分析した。
田研究員によると、馮孝約の墓誌には「主辱於前、臣黜於後」と記されているが、これはこの事件を暗示している可能性がある。ゆえに墓誌の内容は、この宮廷の争いが官吏の運命に及ぼした影響を、側面から反映していると言える。(編集YF)
「人民網日本語版」2015年4月30日