第二に、一部を都合よく解釈したり、史料を曲解したりして、「中国側が日本の釣魚島支配を黙認し続けていた」ことを「証明」するものである。内閣官房領土・主権対策企画調整室のホームページに掲載された「平成27年度報告書に掲載された資料例」8番には、日本外交史料館所蔵の「熊本県民井澤弥喜太外二名清国ヘ漂流シタル節救助シタル同国地方官ヘ謝意伝達之件 明治二十六年」所収「別紙[右照覆]」(1894年1月13日付)が公開されている。この資料を書いたのは、「大清欽命布政使銜辯理通商事務福建分巡寧福海防兵備道」という官職を持つ清朝の地方官、陳氏である。これによると、暴風に遭って中国沿岸に流れ着いた日本人3人を中国が保護し、外交ルートを通じて日本に送り返したことについて、上海日本総領事館は「感謝状」を陳氏に送付した。この資料は、在上海日本総領事館の「山座」という名の外交官宛てに感謝状受領の旨について回答したものである。陳氏の書簡の日付は光緒19年12月7日(1894年1月13日)である。書簡には、日本の外務大臣陸奥(陸奥宗光)の命を受けて上海日本総領事館が中国に書いた「感謝状」の内容の一部が引用されている。「井沢弥喜太等三人は、沖縄県八重山島から胡馬島への航行の際、暴風に遭って清国沿岸まで漂流し、清国平陽県知県、霞浦県知県、ビン安協(ビンは門構えに「虫」)、福防庁長、福州通商局長等各官から手厚い保護と世話を受けた。本大臣(陸奥)はこの報告を聞いて深く感謝している」とある。今日の日本政府はこれに基づき、中国の地方官が日本人の釣魚島行きに反対しておらず、これを問題視しなかったことは、釣魚島が古くから日本に帰属していたことを示すと論証している。だが日本政府のこの解釈に無理があるのは明白だ。陳の回答と引用された日本の感謝状の内容を真剣に分析すれば、日本人の釣魚島行きを中国の地方官が無視していたとの結論は出せない。
第一に、「胡馬島」が釣魚島であるかについては中日の史学界でも大きな論争がある。「胡馬島」が「魚釣島」(中国の釣魚島主島)を指すのか、「久場島」(中国の黄尾嶼)を指すのか定かでないという日本人学者もいる。そのため「胡馬島」への航行が釣魚島への航行を意味するとの推論は確かなものではない。
第二に、1884年から1895年の釣魚島に対する日本の「調査」は秘密に行われたため、日本人遭難者を救助・保護した中国の地方の役人も、書簡の書き手である地方官の陳氏も、日本人の「胡馬島」が中国の釣魚島を指すと知っていたとは考えられない。日本人による「胡馬島」への航行が中国の釣魚島への航行であるなどとは知らず、反対するはずもなかった。