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中国ウォーキングの開拓者、日本滞在歴を持つ金喬氏

人民網日本語版 2014年05月29日10:50
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>>日本留学帰国者インタビューシリーズ

 金喬氏は1958年生まれで、ハルビン師範大学を卒業した。1987年にハルビン理工大学客員研究員として日本を訪れ、東京学芸大学の大学院を卒業し、96年に帰国した。2002年には北京毎日徒歩運動センターを設立し、万里の長城、シルクロード、黄河の上流、桂林市の漓江、内モンゴルの草原、チベット、北京の周辺各地などでウォーキングイベントを行った。同センターは2005年に国際市民スポーツ連盟の中国本部に加盟した。金氏は一般人のウォーキングの提唱者として、健康・文化・歴史の道を歩む人々の先頭に立っている。

 インタビューの実録

 ■日本の津田塾女子大学に入学

 記者:日本に留学したのはいつですか?

 金氏:私は早かった方です。出発したのは1986年末で、日本に到着したのは1987年の元旦でした。当時はハルビンから列車で上海に行き、さらに鑑真号と呼ばれる船で大阪に行く必要がありました。そこからさらに新幹線で東京に移動しました。私が日本で通った最初の大学は、女子大学だったからです(笑)。

 私の母はハルビンで大学卒業後に日本語教師になりました。当時ハルビンでちょうど、国際的な商談会が開かれており、母は学生を連れて翻訳に行きました。私も日本語を学習したことがあり、手伝いに行きました。商談会の前日、私が連れていた日本の代表団は大通りで、観光に来ていた日本人女性と出会いました。その人はハルビンで列車を降りると泊まる場所が見つからず、困り果てて涙を流しそうになっていました。

 私はあちこち駆けずり回って、女性の宿泊場所を探しました。私達は知り合ってから、良い関係になりました。彼女の帰国後も文通が続きました。私は日本で学習したいことを明かし、彼女は学校でつてを求めてくれました。彼女の推薦により、筑波大学のある学部長が、私の受け入れに同意してくれました。手続き中に、この先生は日本の女子大学である津田塾大学に転勤しました。その後さらに特別な手続きを経て、私は先生と津田塾大学に入りました。私はこの長い歴史を持つ女子大学の初の男子生徒となり、しかも中国人でした。私の先生も、中国人の留学生を受け入れるのは初めてでした。

 大学で、私は主に日本語を勉強しました。2年後に先生は、女子大学は男子生徒に卒業証書を与えられないと言いました。先生はその後、私に国立東京学芸大学を紹介してくれました。そこで私は2年間の修士課程を選択しました。

 ■新聞配達と中国語教師のアルバイト、日本社会の人情を体験

 記者:初めての日本について、どのように感じましたか?

 金氏:86年末から87年にかけて、中国人留学生は多くありませんでした。当時の中日両国の民間のムードにより、私はまごころや親しみといったものを感じていました。当時の日本社会は中国に良いイメージを持っており、しかもそれには純粋な感覚がありました。

 学校に通っている頃は収入がなく、アルバイトをせざるを得ませんでした。私は学校の近くに住んでいたので、新聞配達のバイトを探し、1年半も朝日新聞を配り続けました。新聞配達の時に、多くの周辺の住民と接しました。あれは私の初めての仕事で、最大の収穫を得られた仕事でもあります。新聞配達の他に集金もしていたので、その時に住民と話ができました。温かい人も冷たい人もいて、友人のように接してくれる人もいました。あの頃、私は多くの友人と知り合い、日本で発展する二つ目のチャンスをもらいました。私が新聞配達で苦労しているのを見た女性は、中国語を教えられないかと聞いてきました。私は、そんなのは簡単だと思いました。私はそれから区役所に行き資金を申請し、補助金をもらえました。場所は区民会館で、生徒は無料で授業が受けられました。私は中国語を3カ月教え、クラスは好評を博しました。3カ月後に区役所からの補助金が受けられなくなったので、熱心な主婦が私のために新しい中国語クラスを開いてくれました。このクラスは10年ほど続き、私が中国に帰国する前も開かれていました。

 あの頃の日本社会は、中国に対して深い思い入れを持っていました。高齢者、例えば中国に行ったことのある第二次世界大戦の元兵士、開拓団に加わった人は後悔を胸にしており、一緒に話をしている時にそれが感じられました。彼らは戦争が中国にもたらした莫大な損害を知っていたため、いつも機会を見つけ中国人に手を貸そうとしました。中国語クラスに参加した多くの人も積極的に私を助けてくれ、とても熱心でした。

 その後、日本に留学する中国人が増え続けました。玉石混交で、中国人留学生による犯罪が増加し、ニュースで報じられるようになると、日本人の間で悪い影響が生じました。

 特に近年、日本の一般人の中国人に対する友好的な感情が日増しに薄れており、非常に残念に思っています。

 

金喬氏。


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