2015年7月9日  
 

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浅野勝人・元内閣官房副長官 「平和と友好の精神を受け継ぎ、中日の共同発展を促進」 (2)

抗日戦争勝利70周年インタビューシリーズ第2期

人民網日本語版 2015年07月07日08:55

 浅野氏は取材の中で、幾度も周総理や大平外相など、先代の政治家に言及した。浅野氏はこれらの政治家の中日関係に対する先見性と誠意、そして彼らの人間的な魅力に心服させられたという。「幸運なことに、周恩来総理に接見していただく機会に恵まれた。周総理の中日関係発展に関する言葉は、かけがえの無い誇りと指針となり、今でも心に生きている」。浅野氏は2010年に政界を引退した後も、中日交流事業に力を注いだ。2011年以降、招きに応じて北京大学で7回にわたる講演を行い、学生たちに自らが体験した中日関係の発展の歴史を語り、中日友好への期待を伝えてきた。浅野氏はこうした交流を「草の根の交流」と呼ぶ。中日国交正常化に立ち会った1人である浅野氏は、先代の政治家たちが中日関係のために行った貢献を中日両国の若者に伝え、若者たちが「温故知新」し、そこから何かを学び、中日関係に正しく向き合い、素晴らしい未来を創造することを望んでいる。今年5月、浅野氏は北京大学など中国の大学で8度目となる講演を行った。

 同世代の多くの人と同じように、戦争は浅野氏に辛い記憶をもたらした。日本が降伏した1945年、浅野氏はちょうど小学一年生だった。浅野氏は当時を振り返り、「当時、日本の主な都市はほとんどが米軍の爆撃を受けた。私の故郷・愛知県豊橋市も例外ではなく、2つ年上の兄と祖母と手をつないで、その戦火を逃げ惑ったのを今も記憶している」と語る。

 戦後、ほとんどの日本人は貧困を経験した。「当時はお米がなくてイモばかり食べていた。アメリカが援助した学校給食の粉ミルクが唯一の栄養源だった。それが後になって、家畜用の脱脂粉乳だったことがわかり、敗戦国の立場を思い知らされた」。

 浅野氏は「戦争というものは、勝っても負けても犠牲になるのはその国の市民。互いに、どんなに考え方が違っても、溝があっても、どれほど大きな対立点を持っていても、武力でそのことを解決するのは許してはならないし、間違っている。私たちの世代は、戦争は二度と許してはいかんという思いが強い。最近日本の世論が右傾化の傾向にあることを懸念している」と語る。


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