2014年1月13日  
 

中国の夢健康知恵袋 企画集 日本からニイハオ!

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「戦争の記憶」と真摯に向き合う研究者 山口直樹さん (4)

 2014年01月13日13:49
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第98回交流会 「メディアは日中関係悪化の元凶か」

 ----- それにしても、100回というとかなりの数ですが、直接的な利益を得ない活動で、個人的に主催されている会がここまで長く続けてこられたのは、どんなモチベーションによるのでしょうか?

 まず、一つ目は、学術交流が自分自身の独自性を表現できる場であることです。自分がなぜ今中国にいてどういうことをやれば意義があるのかということを考えたときに、自分は学術分野で生きてきているので、学術交流会を行うことによって、さまざまなネットワークが出来てきて、それが将来的にも何らかの形で活かされるという可能性があり、実際、そういったものが無形の財産になっている感じはします。

 また二つ目は、日本人と中国人の研究者を結びつけて、そういう人たちのネットワークを広げたいというのもあります。それに伴って、一般の人たちも学術の場に入ってきてくれたりして、幅広い人と交流する楽しみがあります。

 それから、日本にいたときに市民科学研究室の上田昌文氏や湘南科学史懇話会の猪野修治氏の活動を見ていたことも大きいかとおもいます。彼らは常に「上から」ではなく「下から」の市民による科学あるいは研究を考えていました。これは高木仁三郎氏の市民科学の活動同様、日本のすぐれた活動です。そういう活動に影響を受けたところは大きいと思います。

 学術というと堅苦しく聞こえてしまいますが、実際は長く続けようと思えば、新しく知り合いになった人と交流する楽しみのようなものがこの会の継続を支えてきたんだと思います。

 ただ、もともとはそういうネットワークを積極的に作っていくタイプではなく、どちらかというと、引きこもって、没頭して研究しているタイプですね。人から促されて外にでていくというかんじでした。でも、あまりにも日中の状況が悪いため、自分が関わっている学術という分野で、もっと交流する場を作らないと駄目だと思い、あえて引きこもりを辞めて努力をしている部分があります。

 ----- スタッフの方からは、何かに対する怒りみたいなものが動機にあるのではという意見も出ていましたが。

 それはある意味当っていると思います。私は、「戦後日本は果たして戦争の責任をきっちり果たしたのだろうか」という問題がきっちり検証されてきたわけではないと考えていて、依然として戦争とか植民地支配の問題をきちんと歴史的に総括できてないという思いがあるんですね。日中関係がうまく行かず、ぎくしゃくしているのも日中両国が、戦争や植民地支配の後遺症にいまだに苦しんでいるところが大きいのではないかと思います。戦争の記憶に真剣に向き合おうとしない日本の支配的な社会秩序に対する怒りとか嫌悪。そういうものが私の関心を満洲中央試験所やゴジラに向かわせているという気がしていますし、それが学術交流会を続けるひとつの動機になっているのかもしれません。スタッフの中には「愛と怒りの北京日本人学術交流会」なんていう人もいます。(笑)

 ■日本初の怪獣映画「ゴジラ」を中国の若者に伝える「ゴジラ」行脚
 ----- 山口さんは学術交流会以外にも、ゴジラ研究家という肩書きも持たれていますが、ゴジラにひかれたのはどういう経緯なのでしょうか?

 私の子供の頃は、ウルトラマンとか仮面ライダーで育ってきている世代なので、ゴジラは実はリアルタイムでは見ていません。かなり後になってから、「ゴジラ」(1954)をレンタルビデオ屋さんで見て、「何だ、これは?想像していたものとはまるで違う、すごく真面目な映画だ」と思って驚いた記憶があります。自衛隊も防衛隊として登場しますし、怪獣映画というより、むしろ戦争映画という色彩が強く、ゴジラと自衛隊の戦いがかなりリアルに描かれていました。なによりゴジラとは日本人にとって「戦争の記憶」なのです。  だから、日本でゴジラ映画は、20本以上つくられている。たとえばアメリカでターミネーターやエイリアンはそんなには製作されないです。忘れたと思ったころに亡霊のように現れてくるのが、ゴジラです。かつて地球上で繁栄をきわめていたが、滅び去ってしまった恐竜の形象をもっているのもこのゴジラの「戦争の記憶」としての亡霊的性格を象徴していると思います。

 満鉄中央研究試験所のことを研究しようと思ったのは1990年代の半ばのことでしたが、それを研究するうちにゴジラのことにも関心が生まれてきました。ゴジラは1954年に米国が行ったビキニ環礁の水爆実験に巻き込まれた第五福竜丸事件を元に着想して生まれたものです。この第五福竜丸の被爆者の大石又七さんと出会ったのが、2004年頃のことです。占領史家の笹本征男氏が引きあわせてくれたのです。その後、私の知り合いが「ゴジラ」(1954)に出ている宝田明さんに北京に来てもらって話をしてもらったらどうだと言ったことから、なるほどそういう手もあるのかと思って、宝田さんの事務所を調べて、コンタクトを取りました。実は、そのちょっと前に国会図書館でゴジラのこと調べている時に、宝田さんが執筆された「ニッポンゴジラ黄金伝説」という本を読んでいたら、実は宝田さんは、朝鮮で生まれてすぐ「満州国」に移ったのだ、お父さんは満鉄の技術者で、ハルビンで育ったという話が書かれていました。そこではじめて、私が研究している満鉄とゴジラがつながったのですね。

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