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元八路軍の日本人兵士・小林寛澄さん「軍事パレードに参加できて光栄」 (2)

抗日戦争勝利70周年インタビューシリーズ第8期

人民網日本語版 2015年09月02日10:34

▽捕虜に対して日本軍よりはるかに寛容な八路軍

 小林さんは1919年9月2日に群馬県の裕福な寺の住職の家に生まれた。高校卒業後、小林さんは実家の寺を継ぐはずだったが、1年後の1940年に徴兵されて中国の青島付近に派遣され、軽機関銃手となった。1941年6月19日、小林さんの所属する部隊は付近の山にいる八路軍を攻撃するよう命じられたが、逆に八路軍の待ち伏せに遭い、弾薬手だった白戸利一さんと共に山中で身動きが取れなくなってしまった。

 逃げ場のないことを知った小林さんと白戸さんは自決することを決意。軍人として、捕虜となるのは恥だと思っていた。小林さんは当時を振り返り、「あの時は本当につらかった。戦友に向かって発砲するのはどうしても躊躇われたが、捕虜になっては絶対にいけないと思った」と語る。白戸さんから懇願され、小林さんはついに腹部に向かって発砲する。その後、小林さんは軽機関銃を自分の頭に向けて発砲し、自殺しようとした。

 発砲後、小林さんは気を失ったが、銃弾は頭の皮を掠めただけで、死んではいなかった。目が覚めると、小林さんは八路軍の捕虜となっていた。八路軍は日本語で「捕虜は殺さない。優待する」と何度も呼びかけたが、小林さんは恥と怒りに耐え切れず、何度も自殺しようとした。しかしその都度、八路軍によって止められた。

 自殺ができないと知った小林さんは、まずは八路軍に従い、機会を見て行動に移そうと考えた。幸い、小林さんが腹部に向かって発砲した白戸さんも命をとりとめており、2人は八路軍が付近の農家から持ってきた戸板に乗せられて付近の村に送られた。八路軍の尋問に対し、小林さんは初め、嘘の情報を伝えていた。八路軍をおびえさせようと、付近では日本軍が軍備を整えていると言ったりもした。しかし八路軍は小林さんの嘘を暴かなかったばかりか、傷口の治療をし、食事を運び、八路軍の軍服に着替えさせた。小林さんは、八路軍の捕虜に対する態度は日本軍よりはるかに上だと感じていた。

 その後、小林さんは八路軍と共に各地を転々とした。途中、多くの村が日本軍によって焼き討ちに遭い、村民が殺害されているのを見て、徐々に恥ずかしいと感じるようになった。小林さんは捕虜であったが、八路軍の幹部と兵士は友好的な態度で小林さんに接した。小林さんは現地の八路軍が開催した中国共産党創立20周年大会に招かれたほか、傷の治療、食事にいたるまで、一般の兵士よりも良い待遇を受けた。日本語が話せる八路軍の幹部は抗日戦争の性質について彼に語り、日本語の関連書籍を渡した。


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