実際、1895年に日本が台湾及びその附属島嶼を植民地支配した後、井澤は初めて釣魚島、黄尾嶼に常住し、植民開発を行うことができた。井澤の長女・井澤真伎は1901年に黄尾嶼で生まれた。1972年1月8日、井澤真伎は貴重な歴史証言でこう指摘している。「当時日本政府も中国がとっくにこの島嶼に命名したことを知っていた。後に日清戦争(甲午戦争)によって台湾と一緒に奪い取り、明治二十九年(1896年)に正式に日本領に組み込んだ。日中両国間には良好な関係を築くべきだ。この時期に日本がその占有を既成のものとする不当な主張をするのは間違っている。日本は敗戦時、台湾および当時一緒に奪い取った島嶼を中国に返還すると約束した。尖閣列島(釣魚島及びその附属島嶼)をその故郷である中国に返還するのは当然だ」。これこそが歴史の真相だ。
近年、日本外務省は当時日本人が島に上陸して開発を行っていた写真を釣魚島が日本に属する証明としてウェブサイトに掲載しているが、これは全く成り立たない。なぜならこれらの写真はいずれも1895年に日本が台湾を植民地支配した後の釣魚島の植民開拓の様子だからだ。古賀辰四郎は1895年6月10日にようやく日本政府に釣魚島の租借開発を申請し、1896年9月に認められた。古賀は、日本が甲午戦争勝利後にこれらの島嶼を獲得したことがその大きな背景であることを認めている。日本が甲午戦争を通じて釣魚島及び台湾全土を盗み取る根拠となった馬関条約(下関条約)は1945年の日本の敗戦・降伏後にすでに廃止されている。台湾植民地支配時の釣魚島に対する壊滅的開発の写真数枚を取り出して、釣魚島が日本「固有の領土」であった証明とする。まさか日本は、当時の中国大陸・台湾での植民略奪の写真も、これらが日本領である証拠にするのではあるまい。(編集NA)
「人民網日本語版」2016年5月4日