12日午後、5人の老人が広東省珠海市金湾区三灶鎮に集まり、旧日本軍の臨時指揮部や慰安所などの戦争犯罪の証拠となる遺跡3カ所について、市博物館の専門家に対して現場で実証した。中国新聞網が報じた。
92歳になる鐘泉さんは、旧日本軍の占領下にあった期間、保健師として日本軍病院で働いていた。鐘さんは、蓮塘村旭秀街二巷33番にある譚家の旧家を指さしながら、「ここは、旧日本軍の慰安婦の宿舎、食堂、浴室だった」と証言した。
建築面積146.5平方メートルのこの建物は、もともと、米ホノルル在住の華僑、譚煥氏が1923年に建てた住居という。ここに住んでいた「慰安婦」は、旧日本軍によって数回に分けて送り込まれた。まず朝鮮から10人、その後台湾から10人、香港と広州からそれぞれ9人と、続々と送られた。
83歳になる曾棠さんは、米ニューヨークの三灶同郷会の元会長だ。曾さんは、わざわざニュージャージーから珠海に駆けつけた。彼の記憶によると、旭秀街二巷28号にある青いレンガの古い家は、旧日本軍が慰安所として利用していたという。曾さんは、小石で封鎖された青レンガ壁に遺されたいくつかの窓跡を指さしながら、「ここは、慰安婦が旧日本軍に性的サービスを提供していた場所だ。日本軍がこの窓を作ったが、1945年に日本が降伏した後、家の持ち主がレンガと石で窓を塞いだ」と説明した。
曾さんの記憶では、慰安婦は、目立たないごく普通の恰好をしており、1人1人に番号が振られていた。当時、まだ小さかった曾さんは、その家の用水路に無数の小さなゴムが捨てられていたことを覚えており、風船のように膨らませて遊んでいる子供もいたという。曾さんはその後、それが避妊具であることを年長者から聞いた。
83歳の譚添倫さんにとって、生涯で最も忘れがたい出来事がある。1938年旧暦1月17日、旧日本軍が正表村の向かい側にある長沙欄に上陸した。4隻の漁船が抵抗を試みたが、船に乗っていた70-80人の老若男女が日本軍に攻められ、砂浜で機関銃による攻撃に遭い、漁船はディーゼルオイルで焼き払われた。譚さんは「その1カ月後、旧日本軍は上表村の住民を村から追い払い、村中の成年男子を長沙欄に連行し、全員銃殺した」と語った。この日、自分の祖父と父親も旧日本軍に殺されたという。
87歳の譚振棠さんは、旭秀街一巷22号の洋館「就業堂」を専門家に指し示し、「旧日本軍は、1938年から1941年まで、建築面積186平方メートルのこの洋館を臨時指揮部として利用した。彼らは、三灶海澄村に飛行場・病院・指揮部を建設後、ようやくそちらに指揮部を移転した」と証言した。
統計データによると、旧日本軍は、三灶島を占領していた8年間に、現地住民2891人を殺害した。彼らはまた、飛行場の改修工事のために朝鮮などから動員した農民3千人以上を密かに殺害した。
珠海市博物館保管部の楊長征副部長は、「今回の実証のために集まった証人5人は、旧日本軍の犯罪行為の証拠となる遺跡を現場で実証した。過去に見つかった旧日本軍関係の資料を加えると、旧日本軍の犯罪行為を実証する証拠はさらに十分なものとなった」と話した。(編集KM)
「人民網日本語版」2014年6月13日