2015年8月14日  
 

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中日交流を促す日本の元軍人 (3)

抗日戦争勝利70周年インタビューシリーズ第6期

人民網日本語版 2015年08月14日15:28

戦勝の通達は少なくなり、「特攻隊」の戦闘機が米軍艦隊に突撃したニュースも新聞に掲載された。そうした情況下にあっても、17歳の金子さんは心配こそしたが、日本の勝利を疑うことはなかった。日本が敗戦を意識し始めたのは8月初旬に広島と長崎の原爆投下を受けて以降だった。同月15日に日本は無条件降伏を宣言し、金子さんは8月末に退役したが、退役前に部隊では多くの資料や写真が焼却され、金子さんも戦時中の写真などを燃やした。

「当時は茫然としていた。家に帰ろう。いや、家はもう焼き払われてしまった」。金子さんは途方に暮れた。敗戦後、最初は悔しかったが、後に「自分は救われた。生きている。暮らしを続けなければ。とりあえず働くしかない」と考えるようになった。熟考の末、金子さんは学校に通って勉学に励むことを決めた。

1945年11月、金子さんは試験に合格して高等学校に編入したが、かつての軍人という身分が原因で他の生徒から差別を受け、必死の思いで勉強して周囲の金子さんに対する見方を変えていった。高校卒業後は大学に進学することを考えたが、日本の敗戦後、戦前の公務員は公職を解雇され、金子さんの父親は職を失い、両親に学費を頼ることができなくなった。そこで、金子さんはアルバイトや奨学金を申請してなんとか大学卒業の日を迎えた。

大学卒業後は大手広告会社である電通に勤め、あっという間に35年が過ぎた。朝鮮戦争の物資需要が日本経済の回復を支え、世界の経済大国としての地位を築いたが、この間、日本社会の戦争に対する見方にも大きな変化が生じた。「軍国主義に支配されていた戦前とは違い、戦後の日本は、国に対する見方や党派こそあれ、戦争をしないという共通認識が社会に浸透している。その後『武器輸出三原則』なども定められ、日本は最大限戦争から離れるようになった」と金子さんは語る。自身も反戦と平和教育を受けてきた。

仕事や他の対中友好的な人々と接する中で、金子さんは次第に中国に興味を抱くようになった。1966年、金子さんは日本のメディアと共に訪中し、周恩来総理の接見を受けた。これが初の訪中となり、深い印象を残した。金子さんは中国人民解放軍の軍服に識別のための肩章や襟章が誰一人つけられていないのを見て、これこそが理想の民主平等だと感じたという。これは当時特有の情況ではあったが、金子さんにとってそれは中国に特別な思い入れを残すこととなった。

70年代初め、金子さんが勤める電通に中国で生まれ育ったという日本人が就職した。この日本人の家族は戦前偽満州国で仕事をし、戦後中国に残って新中国と共に成長した。彼の物語は金子さんの心を強く打った。その後中国に関心をもつ同僚らで中国語学習サークルが結成され、中国から帰国したその日本人が中国語教師となった。


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