(二)
養母は私が立派な大人になれるよう心を砕いて育ててくれた。わざわざお金を払って家庭教師をお願いし、読み書きを勉強させてくれた。日常生活においても私がどのように振る舞えばいいか、自ら身をもって手本を示し、たくさんの生活の知恵を教えくれた。養母は洗濯、裁縫、刺繍など女性としての教養も教えてくれた。私は結婚してからは、夫と子供の普段着を全て自分で作った。もちろんぶっきら棒に教えるのではなく、母娘の間にはいつも冗談や笑い声が絶えなかった。今思い返すと、私はこの何気ない日常生活の中で養母の深い愛と暖かさに包まれ、幸せだった。
(三)
私が成長して嫁いだ後も、養母はいつも私のことを気にかけてくれた。私が最初の出産をしたとき、中国国内はまさに「三年困難」(1959-1961年の食料大飢饉)の時期で、養母は私の「座月子」(産後の肥立ち)の空腹を心配し、いつも自分が食べずに残した食料を私に食べさせ、何事もなかったかのように装い、こう言った。「喉が渇いていたから食べられなかったよ。おかゆでも飲むから、あなたが食べなさい」。しかし、それが養母の私に対する愛情であることを、私は感じないはずがなかった。それだけではない。ある日、養母が卵の入ったカゴを私のために持ってきてくれた。当時、卵は非常に貴重なもので一般的に口にするのは難しかった。私に卵を食べさせようと息を切らす母親を見て、色んな感情が沸き起こり、養母の胸に飛び込んで泣き出してしまった。養母の心の中では私は永遠に養母の実の子だった。養母の慈しみの心は決して忘れることができない。養母が私から去って十数年が経つが、私は養母の墓石に刻んだ「養育の恩、永遠に忘れまじ」という文字を、心の中にもしっかりと刻んでいる。(編集JK)
「人民網日本語版」2015年10月12日
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