大学で日本美術史を専攻していた石垣さんは、卒業後掛け軸などを主に扱う美術商に就職。だが日本文化や美術を多くの人に紹介したいという思いがつのり、出版業界の制作会社に転職した。しかし、担当したのは美術でも日本文化でもなく、旅行ムック本やグルメ雑誌などの編集・執筆だった。理想とのギャップを抱きつつも、時には1週間で3時間しか家に戻れないという非常に忙しい日々を送る石垣さんのもとに、ある日、北京のギャラリー運営に携わらないかという思いがけない誘いが届く。
中国には行ったことがなく、中国に対する知識もほとんどなかった。当然、中国語は話せない上、英語も大の苦手。また、当時は中国各地で起こった反日デモのニュースもまだ記憶に新しく、即決するのは難しかった。
驚きと戸惑いを感じながらも、自分の裁量でギャラリーを運営できるという仕事内容に心引かれ、まずは中国や会社の様子を見てみようと北京を直接訪れることにした。
「大学院を卒業後、北京ですぐに働き始めた社長は、『自分を受け入れ、育ててくれた中国に恩返しをしたい。せっかくビルのワンフロアを使えるのなら、物を売るのではなく、文化的に街を豊かにするという方法で街に恩返しをしていきたい』という話をしてくれました。こういうことを考えている人の下だったら多分自分がやりたいと思うことを一緒にやっていけると思いました」。それから1週間後、石垣さんは北京に行く決心をする。そして4ヵ月後の2013年9月から石垣さんは北京で働き始めた。
「実際に来て戸惑ったことは実はあまりないんです。逆に日本だと簡単なことでも、上下関係やしがらみなどで色々と根回しなどが必要になったりしますが、北京だとシンプルにやりたいと言えば、皆がわかってくれる。ただ、中国では結果を出すまでの期間や進行速度が問われるので、すべてのプロジェクトで『スピード』が求められます。ギャラリーの運営もまずは3年で結果を出せと言われました」
言葉もわからず、知り合いもまったくいない北京で当初は何から始めていいのかさえわからなかったという石垣さんだが、この半年ですでにいくつもの企画展を開催した。今では、アートのみならず、会社本体の業務である都市設計という面にも魅力を感じ始めている。
「企画の提案などで建築業務に関わるうちに、街とは建築を指すだけでなく、そこに生きている人やそこで育まれた文化も含めて一つの街であることに気付きました。そこにある記憶や文化の容れ物を作ることが都市設計だとすると、今まで関わってきた美術とも密接に関わっています。そういう視点でギャラリーの仕事と建築の仕事を見ると、俄然興味がわいてきました」
石垣さんは、将来の夢について次のように語ってくれた。
「北京で今の仕事を形にした後、将来的にはアジアのアートや文化を人々に伝えていきたい。そして、60ぐらいになったときに、小さなカフェを作りたい。こじんまりとした、日当たりのいい場所に、美術の本とかを置いて、若い人たちに刺激を与えてあげられるような場所を作ることができたらいいなと思います」。
自分自身何をすべきか、何ができるかを思い悩んだ時代があったからこそ、若い人たちに特別な共感や興味を抱いているという。「自分には特別な才能がないので、できないことをたくさん持っている人のことを誰よりも理解できる。普通の人だからこそ、普通の人と特別な才能を持つ芸術家との間を結ぶ仕事ができるんだと思う」。そう語る石垣さんの表情には、仕事への情熱や自信が浮かんでいた。
感性の合う人同士が結びつく、奇跡のような出会いの瞬間を見るのが好きだという石垣さん。人と人を結ぶ場所であるカフェに惹かれるのも自然なこと。「在樹上咖啡」に背中を押されるようにして決意した北京での美術と人を結びつける仕事は、やはり運命の出会いだったのかもしれない。