日本が敗戦69周年を迎えるにあたり、安倍政権を始めとする歴史修正主義勢力が時計の針を逆戻りさせようと愚かにももくろむ逆流の中にあって、8月15日の歴史的意味を改めて熟考し、忘却や嘘に対抗することが、日本社会が直ちに向き合わねばならない現実的課題となっている。新華網が伝えた。
■8月15日:元日本兵の屈辱と新生
「毎年8月15日はあなたにとって何を意味しますか?」との記者の質問に、元日本兵の沖松信夫さん(89)は、一言では言い尽くせないと語った。沖松さんにとって1945年の8月15日は紛うことなき新生の日であり、自分にとってもう1つの「誕生日」だ。69年前の盛夏、日本陸軍第六航空軍特攻部隊「振武隊」の一員として3カ月の訓練を受けた沖松さんは自爆攻撃のため沖縄へ飛び立つ準備をしていた。8月15日に4人の仲間とともに出撃命令を受けたが、経由する飛行場が空襲を受けたため、予定通りに出発できなかった。そして同日正午前後、裕仁天皇がポツダム宣言の受諾を宣言し、日本は無条件降伏した。「あ、助かった!」。沖松さんはその時、心の中では喜びがやまなかったが、それを顔に出すことはできなかった。
戦後、沖松さんは8月15日が日本にとって新生の日であることを深く理解した。1961年に元日本陸軍中将の遠藤三郎氏が、戦争を反省し、戦争の根本的原因を取り除き、日中友好を促進することを訴えて「日中友好元軍人の会」を結成。沖松さんはこれに感化されて入会した。後に同会は「日中友好8・15の会」と改称。現在数百人の会員がいるが、戦争を経験した元兵士は10数名しか残っていない。同会の核心的理念は「軍備亡国・反戦平和」「過去の直視、これが歴史認識の原点」。沖松さんは現在代表幹事を務め、90歳近くになる今もなお様々な講演や講義に参加し、痛ましい戦争の記憶と反省の精神を多くの日本人に伝えている。
沖松さんから見ると、靖国神社参拝であれ、集団的自衛権の行使容認などの軍備措置であれ、安倍政権の動きは潮流に逆らうものだ。安倍内閣の危険な暴走の原因の1つはまさに国民の無関心やどうでもいいという心理にある。
■8月15日:戦争の記憶の継承と忘却
「69年前の8月15日は晴天だった」。「日中友好8・15の会」常任幹事の熊谷憲治さんは記者にこう語った。熊谷さんは吉林省通化市に生れ、日本敗戦時はわずか5歳だった。ぼんやりした記憶を後に母から聞いた話と結びつけて、異国の地で迎えたあの日を振り返ってくれた。「あの日母が、外に出てみたら今まで見たことのない光景を見た、周囲の中国人の農家がどの家も中国の旗を掲げていると、私に慌てて伝えた。あ、ここは人の国、人の土地なんだと、みんな夢から覚めたかのようだった。私たち日本人は人の土地をずっと占領していたんだと」。
熊谷さん一家は朝鮮半島に逃れ、曲折を経て1947年にようやく日本に戻った。熊谷さんは「日本が8月15日まで間違っており、8月15日後にようやく新生を迎えたことは間違いない」と語った。
■8月15日:歴史認識と戦争責任の原点
8月15日をめぐる迷いはその呼称にも表れている。日本政府の正式な呼称では「終戦の日」であり、「敗戦の日」ではないし、ましてや「無条件降伏の日」ではない。こうした表現によって、あの戦争の罪悪と教訓を完全に回避している。
元共同通信編集委員の中村明氏は「日本の統治層が敗戦を認めようとしないのは、戦争責任の追及という問題がもたらされること、特に裕仁天皇とその腹心の戦争責任に波及することを懸念してのことだ。敗戦、降伏を『終戦』と言いなすことは、最終的に洗脳となった」と分析した。
沖松さんは「日本は当時一貫して誤った歴史観の中で敗戦を迎えた。国の指導層であれ一般民衆であれ、敗戦の根本的原因を本当に認識することはなかった。多くの人は敗戦を遺憾と思うだけで、日本がなぜアジア各国に甚大な損害をもたらす侵略戦争を発動し、最終的に敗れたのかについては正しい知識がなく、徹底的に追究しようともしなかった。戦争体験のある元兵士を含め多くの日本人は、いまだに日本が米国に負けたことだけを認め、中国の戦場でも敗者だったことは認めない」と指摘した。
「8月15日が一体何を意味するのかを、日本人一人一人が改めて問いただすべきだ」。沖松さんの表情は再び重々しくなった。(編集NA)
「人民網日本語版」2014年8月15日