2015年9月18日  
 

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中国侵略日本軍元兵士「日中友好の前提は侵略を認め反省すること」 (4)

抗日戦争勝利70周年インタビューシリーズ第9期

人民網日本語版 2015年09月18日10:50

 降伏したなら日本にすぐ帰れるだろうと思っていた高橋だが、その後の事情はそううまくは運ばなかった。1946年2月、高橋はほかの日本軍の戦争捕虜とともに、ソ連赤軍に何組かに分けられ、船に積み込まれた。捕虜たちは日本に行く船だと思っていたが、東ではなく北に向かい、ウラジオストク付近の港に着いた。

 日本の捕虜たちはその後、極寒のシベリアに連れて行かれ、伐採や炭鉱、鉄道工事などの労働をすることとなった。シベリアの環境は非常に厳しく、冬の気温は零下30度を下回る。そんな中で労働を強制されるので苦しみは増した。「少しでも怠けると殴られた。食べ物もひどい。一日300グラムの黒パンだ。スープは塩を振ったお湯で、中には1、2枚の葉が入っているだけだ」。「若者の多くが過労と栄養失調でシベリアで死んだ」

 ソ連によってシベリアに連れて行かれた日本人捕虜の一部は1947年から1949年まで次々と日本に送り返された。高橋は、シベリア抑留の最も長かったグループの一人だ。1950年、建国したばかりの中華人民共和国は、当時国際社会が制定していた戦犯処理規定にのっとり、ソ連政府から引き渡される日本人戦争捕虜の受け入れを始めた。同年7月、高橋哲郎を含む1000人近くの日本人戦争捕虜は、B級・C級戦犯としてシベリアから遼寧省の撫順戦犯管理所に移された。

▽中国政府の教育で目覚める

 撫順戦犯管理所での6年を振り返ると、高橋は万感の思いにとらわれるという。あのような巨大な変化は、それを経験した人でないとわからない。管理所に入ったばかりの頃は、特別なことはなされなかった。日本の降伏から5年が経っていたが、高橋を含む戦争捕虜たちは日本が発動した戦争の侵略性をまだ認識していなかった。だが管理所に入れられた人々は、一般の軍人であっても憲兵、警察であっても、自分が中国でした悪事を知っており、死刑になるのではと心配していた。


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