二、日本政府の挙げる「証拠」の一つに、1958年に中国が出版した『世界地図集』(1960年第二次印刷)がある。この地図帳においては尖閣諸島が「沖縄の一部として扱われ」、この地図の記載は1972年になって初めて改訂されたという。だが事実は異なる。自らと他人を欺く日本側の細工は見事失敗に終わっている。
日本のやり方は、一部を取り上げて全体を説明するもので、まったく成立しない。中華人民共和国建国からまもない1950年代には、いくつもの種類の世界地図帳が出版されている。例えば1953年に中国地図出版社が出版した『新世界分国図』では、日本に琉球群島は含まれておらず、釣魚島も当然含まれていなかった。これは戦後の日本の領域に対する当時の国際社会の認識を反映したものと言える。日本側は、中国大陸部で1958年に発行された『世界地図集』の日本についての記載に「尖閣諸島」が出ているのが証拠だと主張する。だがこの地図帳の扉ページには、「中国の一部の国境は抗日戦争以前の『申報』地図に基づいて制作された」または「中国の一部の国境は解放前の『申報』地図に基づいて制作された」という注があることは言及されていない。「申報」は長い歴史を誇る上海の新聞で、1885年9月には、台湾北東の島嶼(即ち釣魚島)の占領を目論む動きが日本にあるとの動向を伝えている。だが1941年に上海が日本軍によって占領されると、「申報」も接収された。この間の「申報」の出版した日本地図は、日本の台湾殖民統治時代の島名と管轄範囲に基づいて作成された。1958年に出版された地図帳は、台湾本島こそ日本国外に置いているものの、日本の範囲を画定するにあたっては抗日戦争勝利以前の「申報」の地図の影響を受けざるを得なかった。当時の中国側の地図作成者が扉ページに加えた説明はまさに、こうした保留の態度を示すものである。そのためこれらの地図は、中華人民共和国政府の立場を代表するものとは言えない。
日本外務省のウェブサイトは、1958年に中国が出版した地図と1972年に出版した地図とを並べ、1970年代に石油が発見されたことで中国が釣魚島の主権を主張し始めた証拠としている。だがこれはまったくのデタラメだ。1956年に中国地図出版社が出版した「世界分国図」では、日本に釣魚島またはいわゆる「尖閣諸島」は含まれておらず、これらの島嶼は琉球群島の範囲外に記されている。この地図の裏表紙には、「本図における中国の国境線は弊社『中華人民共和国地図』に基づいて画定された」との注がある。この地図の出版時期は、上述の1958年の地図よりも早いはずである。1956年以前に中国はすでに、日本の版図または沖縄県内には釣魚島とその付属島嶼が含まれていないことを意識していたことになる。1958年に中国が発行した地図を根拠として、釣魚島に関する中国政府の立場を判断しようという日本側の論理は成り立たない。
三、日本外務省ウェブサイトには最近また、1969年に中華人民共和国国家測絵総局が出版した『中華人民共和国分省地図』が公表されている。この地図に「尖閣群島」との名称が記されていることは、この島嶼が中国に帰属すると中国が考えていなかったことを示すという人がいる。だがこうしたな強引で一面的な解釈は、1960年代中期に釣魚島海域で石油の埋蔵が確認される前から、中国が釣魚島や黄尾嶼、赤尾嶼を中国台湾省の地図に入れていたことを逆に証明するものとなっている。
1965年に中国科学院地図研究所が作成し、1969年に中華人民共和国国家測絵総局が出版した40年以上前のこの地図『中華人民共和国分省地図』はこれまで「秘密」にされていたという。18ページの「福建省、台湾省」の地図では、釣魚島とその付属島嶼の最東端の赤尾嶼までが中国の台湾省内に入れられている。最東端は地図の枠を拡張して収められており、釣魚島とその付属島嶼が中国台湾省の一部と考えられていたことは確かである。日本側は、この地図に「尖閣群島」や「魚釣島」の島名が使われていることを根拠に、これらの島嶼が日本に属していることを証明しようとする。だがこれらの名称は、台湾の地名に対する日本の50年にわたる殖民統治の影響の名残にすぎず、これらの島嶼を中国の領土とみなす中国政府の原則的な立場を変えるに足るものではない。中国外交部の洪磊報道官はこの地図について、福建省北部と台湾省南部、釣魚島と附近の海域の3カ所が通常の枠をはみ出して示されているのは、福建省と台湾省の範囲を完全に収めるためであり、釣魚島が中国の一部と考えられていたことの有力な証拠であると指摘している。