二田口国博氏が1965年に北京鋼鉄学院卒業時に授与された卒業証書
しかし、思いがけないことに、母親の死後、すぐにある中国人女性が二田口氏を引き取った。当時二田口氏の体は長期的な飢餓と寒さでとても弱まっていた。「養母は一日も早く私を回復させるため、あらゆる手を尽くし、お金を惜しまず米を買ってきてはお粥にして与えてくれた」と二田口氏は振り返る。当時米は栄養価の最も高い主食とされ、戦時中中国人は食べることも植えることも許されず、日本人だけが食べることができた。数ヶ月間の療養を経て、二田口氏の体は少しずつ回復していった。「裕福ではなかったが、養母は家にある一番いいものを出して与えてくれた」という。
「もし養母が私を引き取ってくれなかったら、今日の取材は実現しない。私の命を救い、養ってくれた養母の恩を感じている」。
新中国の成立後、養母は二田口氏を小学校に入れた。「養母は教育を受けたことがなく、字すら書けなかったが、私の教育にはとても力を入れてくれた」という。養父母の支えの下、1960年、二田口氏は北京鋼鉄学院に合格した。「私の家がある通りに大学まで進学できた子はとても少なかった」。翌年の1961年に養父が他界してからは、家庭の経済状況は一層厳しくなり、二田口氏は退学して仕事をすることを望んだ。しかし、養母は「歯を食いしばって乗り切るんだ」といって大学を卒業することを勧めて聞かなかったという。
1965年、大学を無事卒業した二田口氏は瀋陽鉱山機器工場に就職した。その後1989年に日本に帰国するまでの20年余りの間ここで働いた。