――人生で初めて辛いと思いました。言葉の壁ってこんなに大きいんだと。私以外の外国人はヨーロッパ圏の人ばかりで、しかもオーストラリア人の英語は速いんです。会議でも自分がまだ考えているうちに、皆は次の話題に移っている。下手に経験がある分だけプライドが邪魔をして、本当はできるのに、言葉がわからないからできないだけだと言い訳を考えたり。そんなプライドはさっさと捨ててしまえば良かったんですけど。
それでも1年後には、単語を知らなくても、言い回しを考えたり、絵に描いたり、伝えるためにどうすればいいのかを考えながら仕事をするようになり、心も落ち着いた。
――スタッチベリー氏の事務所は別荘など個人住宅の案件が多かったですね。
個人の住宅と言っても、クライアントは富裕層だったので、建物だけで最低でも3億円以上と規模が大きいものでした。
スタッチベリー氏の建築は考えられていない箇所がないというぐらい細部にまでこだわっていて、ディテイルを考えることの重要性や考え尽くすための時間が必要なことを学びました。また、ランドスケープや環境を考慮して設計するなど、日本にいる時とは違う観点から設計を見る事が出来たのも良い経験となりました。
また、オーストラリアは市場が小さい分、商品の種類が限られているので、時にはドアの取っ手や照明なども手作りをする必要がありましたが、逆にそれが創作空間を広げることになって面白かったです。
周囲の状況が見え始め、仕事のスタンスもわかってきた2年が過ぎた頃、梶ヶ谷さんにある転機が訪れる。
――オーストラリアではプロジェクトの進むスピードがすごく遅くて、私がいた2年半の間に結局自分が携わったプロジェクトは1つも完成しませんでした。このスピードのままプロジェクトに関わっていくことが、私の年齢とキャリアにとってプラスなのだろうかと考えていた時に、以前の事務所の代表が北京で事務所を開くから来ないかという話を持ちかけてくれました。
直接日本に帰るよりも、北京という都市を見るのも面白いかもしれない。そう決意した梶ヶ谷さんは、新たな挑戦への期待を胸に、2012年8月北京にやって来た。
しかし、そこでは予期せぬ出来事が待っていた。