――最大の出資者であった中国人は、建築家ではなくて、グラフィックデザイナーでした。設計にはあまり詳しくなく、自分が想像していたものと違っていたのか、1カ月後には「俺は下りる」と言って、辞めてしまいました。
1人取り残された梶ヶ谷さんは中国語も話せず、ただ北京の事務所にいるだけの時間が続いた。1年後、残った二人のパートナーからこれ以上お金は支払えないと言われ、日本に戻るか、北京に留まるかの選択を迫られた。
――その段階で、中国で成し遂げたことや自信をもってやったと言えるプロジェクトがなかったので、何かやってから帰りたいと思いました。正直、それまでの一年間はただ遊んでいるようなものだったのですが、とにかく北京にいることが私の仕事なんだと思って、色んな人と知り合い、一緒に飲んだりして交流を続けていました。いざフリーになってみると、そういった飲み仲間やその繋がりで出会った人たちから徐々に仕事が持ち込まれるようになったんです。
こうした流れで、梶ヶ谷さんは北朝鮮との国境沿いにある遼寧省の街・丹東の幼稚園のリノベーション設計を請け負うことになる。
――この案件は、11年間地元で幼稚園を個人で経営してきた36歳の女性が丹東にはない新しいコンセプトの国際的な幼稚園を作りたいと依頼してきたものでした。床面積5000平方メートルの3階建て、1クラス20人・20クラスの計400人が収容できる大規模な建物です。
建物は北朝鮮との国境の川沿いにあり、目の前に川が流れていました。建物も横に長かったので、その流れを取り入れて、子供たちが遊ぶための「遊路」と呼ぶ廊下と管理の動線を作りました。教室が建物の真ん中に置かれているような形で、教室の周りを子供たちが一周できるようにしたんです。
また、柱が林立している建物だったので、壁はフレキシブルにして、2つの教室を1つにして利用したりと、使い方に幅ができるようにしました。
このほか、丹東の冬の寒さは非常に厳しいので、子供たちが園内で自由な発想で遊べるように遊路に様々な仕掛けを作りました。子供たちが自ら遊び場を作る路地裏のようなスペースを作りたかったんです。例えば、壁にトンネルや穴をあけてそこに入って遊べるようにしたり、クライミングができるようにしたり。あと、天井を一部吹き抜けにしたところにネットの網を通して、上と下が繋がるようにしました。
Flow・Flexible・Freeという3Fをキーワードにしたコンセプトにクライアントは大満足し、プロジェクトは順調に進んだ。しかし、梶ヶ谷さんが驚いたのはその後の工事のスピードだった。それはオーストラリアとはあまりにも対照的だった。
――4月中旬に仕事がスタートしたのですが、クライアントは9月には幼稚園をオープンさせたいと言ってました。私の仕事の契約は基本設計図面という、100分の1程度の図面を提出するものなのですが、日本では、基本設計を終えた後、実施設計に入って、そこで図面が出来上がって、ようやく建物を建て始めます。しかし、この案件では平面図を書いた時点で壁をもう建て始め、立面図が出来上がった頃には壁の下枠はもう出来上がっているという、これまでの常識ではありえないスピードで工事が進んでいきました。現在、内装工事はすでにほぼ終わっていて、幼稚園も8月20日に開園する予定です。
さらに梶ヶ谷さんを驚かせたことがあった。