2015年7月31日  
 

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戦争が生んだ特殊な家族 異父兄妹の肉親の情が戦争の傷跡を癒す (2)

抗日戦争勝利70周年インタビューシリーズ第1期

人民網日本語版 2015年06月26日10:03

中国に渡った理由について、早川さんは、「当時、母親の実家は地元の地主で、父親は母の元に婿入りしたので、中国に移民する必要性はまったくなかった。しかし、父親は自分の独立した家を構えたかったために中国に行くことに固執した。『開拓団』の人々の生活は非常に苦しかった。両親は農作業に従事し、トウモロコシやジャガイモなどを植えていた。これは当時の開拓団の家庭の主食であり、時々米が支給された」と説明する。当時、早川さんは現地の日本人向けの全寮制小学校に通っていた。毎回2時間かけて小学校に通い、2週間に1度家に帰宅した。早川さんは、「黒竜江の冬の寒さは極めて厳しく、手はしもやけだらけになった」と語る。

日本がポツダム宣言を受諾して降伏する1年前の1944年、早川さんの父親は日本軍に召集され、その後ソ連軍によってシベリアの収容所に送られた。早川さんの母親は早川さんと4人の弟妹と共に佳木斯に残された。当時10歳だった早川さんは地元の中国の子供たちから「日本はもうすぐくたばる」と聞かされたが、これが何を意味しているのかよくわからなかった。1945年8月15日、日本は無条件降伏し、東北地域の日本軍と開拓団の日本本土への引き揚げが始まった。早川さん一家は汽車に乗って長春市に向かう途中で日本が戦争に負けたことを知った。

その後、早川さん一家は避難民となり、逃避行の中で3人の弟と妹が相次いで亡くなった。残されたのは早川さんと母親と妹の3人だった。1946年5月、日本に引き上げる準備をしていた頃、母親は伝染病にかかって病院に入院し、日本に帰国する機会を失ってしまった。母親は親戚に長男である早川さんを日本に連れ帰ってもらうよう頼んだが、親戚自身も身の安全が確保できない状態だったため連れて帰ってもらえなかった。


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