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中国残留孤児、中国人養父母からもらった愛を次世代に (3)

抗日戦争勝利70周年インタビューシリーズ第4期

人民網日本語版 2015年07月23日15:36

 佐藤さんは身体の調子が思わしくなく、足腰もやや不自由だが、取材中はずっと笑みを浮かべていた。辛く苦しい過去の暮らしの影など微塵も見せず、おおらかで楽観的だった。佐藤さんは、「自分は幸運だった。とても満足している。養父母は実子よりも自分を大切にしてくれた。東北の山村での暮らしは貧しく、苦しかったが、寒さや空腹といった辛さを味わうことはなく、日本人だからと苛められることもなかった。周辺にいたその他の残留孤児も、養父母に捨てられたり、虐待されたというのは聞いたことが無い」と語る。

 「子供の頃、養父母は私の生まれを明かしてはくれなかった。近くに住んでいた実母もめったに会いに来ることは無く、私は中国の子供として育てられた。自分が日本人であると知ったのは、中学生になったころ、ある人が現地の政府工作隊に私の生まれを伝えたことがきっかけだった。しかし、生産隊の会議に参加できない以外は、他の差別を受けたことは無い。これは、養父母の人間性とも関係がある。養父母は善良で誠実な人だった。他人の潔白を証明するために、危うく命を落としそうになる時もあった」と佐藤さん。

 大人になった佐藤さんは、養父母の許しを得て現地の中国人に嫁ぎ、5人の子をもうけた。佐藤さんの夫は生産隊の会計係だったが、隊長としての役目も務めていたため、仕事が忙しく、家のことに構っている余裕は無かった。「子供の世話と農仕事に追われ、結婚後の生活は大変だった。幸い、夫は働き者で仕事も順調だったため、生活に困ることは無かった。夫はその上他の村民と副業を始め、厚い信望を集めていた。夫の仕事の足を引張らないよう、私は他の女性よりも必死で働いた」。

 日本の軍国主義者が発動した侵略戦争は、中国人に大きな災難をもたらしたばかりでなく、日本人の子供も、戦争のせいで中国の養父母に引き取られることになった。しかし、育ての親への深い恩が、彼らの心を繋げた。「老後のために子供を育てる」ことは中国では当たり前のことだが、養父母は佐藤さんに「もし、いつか実のお母さんが日本に帰れることになったら、あなたも一緒に帰るといい」と言ってくれた。しかし佐藤さんは「そんなことはできない。実の母は私を産んでくれた。でもあなた方は私を育ててくれた」と答えたという。

 中日国交正常化後、日本の残留孤児の多くが帰国し始めた。しかし、佐藤さんは最後まで養父母に孝行を尽くし、実母が帰国して数年後、養父母が亡くなった後に、家族と共に日本に移住した。日本に帰った後も言葉は通じず、仕事や生活面で多くの困難があった。佐藤さんは新聞配達などの仕事から着手し、日本で新たな奮闘を始めた。子供たちも日本で懸命に努力し、今では所帯を持っているという。

 養父母が亡くなった後も、佐藤さんは弟に仕送りを続けている。子供たちからの仕送りは、別な形で子供たちに返している。佐藤さんは息子からの提案で、日本政府が残留孤児に支給する生活手当を断ったという。「息子は、日本政府からの手当てはいらない、自分が母親の面倒を見ると言ってくれた」。

 紆余曲折の人生を語る佐藤さんに、悲しみや怒り、恨みはなく、あるのは感謝と笑顔ばかりだ。大らかな性格は、愛情を受けて育った人だからこそだろう。同年代の中国人と同じく、佐藤さんは新中国と共に貧しく苦しい時代を力強く歩み続け、文化大革命の嵐を経験した。しかし佐藤さんは確かに幸福な人だ。善良な養父母や、勤勉な夫にも恵まれた。中国の家族は佐藤さんに衣食が足りる生活をもたらしただけでなく、「目下の者には思いやりを持って接し、目上の者を敬う」「勤勉に、こつこつとよく働く」という中国人の精神を伝えた。このような精神を佐藤さんは今、次の世代に伝えている。(編集SN)

 「人民網日本語版」2015年7月23日


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