初めて日本語を外国人に教えた体験や学生について、横山さんは次のように語った。
――生徒たちはすごく熱心でした。ただ、全寮制の学校だったんですが、学校近くの3LDKの部屋に20人ぐらいが住んでいるという、恐ろしい環境でした。学生はいろんな地方からやって来ていましたね。皆、勉強には非常に積極的でした。
中国は、わりと先生が大事にされる土地柄なので、僕なんて若僧ですけど、みんなちゃんと敬意を払ってくれて、嬉しかったですね。
ただ、学生たちはすごく純粋な面がある一方、現実的でシビアな面も持ち合わせているのが面白かったです。7月にある先生の誕生日会が学生主催で行われ、生徒たちは1人100元ぐらい払って、食事したり、ケーキを買ったりしてお祝いをしてくれたんです。実は、僕は、その翌月の8月が誕生日だったんですけど、学生たちは、「2カ月連続で100元を捻出するのは負担が大きすぎるから、横山先生の誕生日を知らなかったことにしよう」と、相談して決めたみたいで。でも、それを申し訳ないと思った一部の学生たちが、ケーキを買ってきてくれて、「先生すみません」と謝ってくれた、というようなこともありました。(笑)
深センで、日本語教師として奮闘していた横山さんだったが、その生活はある日突然終わりを告げる。
――日本語学校は、ある専門学校の敷地内にあって、使っていない施設を使用させてもらっていたんですが、今思えばブラックのような学校で、1年足らずで閉校になってしまったんです。
日本に帰国した横山さんは、その後、改めて日本語学校の教師として、中国の上海の地を訪れる。
――オープニングスタッフとしてある日本語学校の立ち上げに関わりました。幼稚園から高校生までを専門に教える学校で、運営もわりとうまく行っていました。そこで、僕は主任を務め、教師としては、幼稚園から高校生まで全部教えていました。幼稚園だったら、絵本を読んだり、お遊戯をしたり。どの学年のクラスの授業もそれぞれの楽しさがあり、今振り返るといい思い出ですね。でも、この学校も今はもう存在しないんですよ。開校して4年後に、学校が閉じることになってしまって。
この上海の学校では、後に「吾輩ハ猫ニナル」の執筆につながる、ある人物との出会いがあった。
――高校生のクラスに、日本人の父親と中国人の母親を持つ日中ハーフの生徒がいたんです。この生徒はアニメが大好きで、小さい頃に身につけた言葉と途中自己流で身に着けた言葉の両方があって、非常にアンバランスな日本語を話していました。日本語も流暢には読めないんですが、「ばかかよ」、「おまえ」といったアニメによく出てくる言葉はすらすらと出てきたり、なんだか面白かったですね。
僕も最初にいきなり会ったときに、「お前」と言われて驚きました。中国語の「你」がすべて「お前」に変換されているようなんです。一人称の「我」は、すべて「俺」でしたね。
ある日、その生徒のお母さんから、「息子が日本に行きたいと言ってるんだけど、先生、一緒に行ってくれないか?」と頼まれたので、引き受けました。
実は、この生徒が、「吾輩ハ猫ニナル」の実在のモデルなんです。この生徒は、オタクで、秋葉原に行きたいというので、秋葉原中心に2人で旅行した珍道中が小説の元になっているんです。最後のシーンは秋葉原のメイドカフェなんですが、そのエピソードも、半分は事実です。